糧を紡ぐ場所で

 インドネシアに住んでいたことがある。家には住み込みのメイドがいて、毎日一緒に料理をした。
 例えば青唐辛子を30本も使った煮込みの鍋が、コンロに置かれていることもあった。空気は辛みに染まりキッチンに入るや涙が出る。むせる私にごめんごめんと謝って、彼女は鍋を自室に運んだ。
 その自室、窓もなく2畳にも満たないメイド部屋が、彼女の食事の場。インドネシアに渡った当初は、一緒に住む人とは一緒に食事をするものだと思っていたが、それが無理なことはキッチンに数回立っただけでわかった。食べるものも食べ方も、彼女と私は遠く遠く隔たっていた。
 高熱を出した私に彼女がおかゆを作ってくれたことがある。それはメイドの仕事の範疇外。純粋に好意の行為だった。けれどベッドサイドに置かれた皿からは、鼻を突く匂いが漂った。タイ米に似た香りのインドネシア米をココナッツミルクで炊き、彼の地独特の調味料で煮しめたココナッツフレークを振りかけたおかゆは、病気の日本人が食べられるものではとてもない。一口で私はスプーンを置き、彼女は皿を静かに下げた。
 以降、私が病気のときに彼女がおかゆを運んでくることは決してなかったし、彼女が病気のときに私が食事を届けることもなかった。病む者に糧を与えるという、慈愛の根源的な発露を、あらかじめ封じられた間柄。

 親子、夫婦、恋人、ルームシェア。同じ家に住む複数の人間が料理と食事と片付けを繰り返し、また繰り返して繰り返す。生育歴や習慣、経済状況や嗜好と決して切り離せない“食”だから、繰り返すほど密になるものがあると同時に、違和が拡大するものもある。
 近年 “食”を題材にした作品を好評を得てきた作/演出の丸尾聡が、今回の舞台設定に選んだのは『ダイニング・キッチン』。作って食べるその場所には、人それぞれの “当たり前”が運び込まれる。
“当たり前”同士がぶつかり合うのかすれ違うのか、それとも譲り合われるのかはわからない。けれど確かなのは、糧を紡ぐ場所をともにする人は、互いの間柄に潜む限界を感じざるを得ないということ。
“あなた”と“わたし”との遠い遠い隔たりを、目の当たりにする舞台となるだろう。

                            国松里香

「飯縄山の話」     丸尾聡

 また『飯縄おろし』をやれることになった。
“飯縄山”は、“いいづなやま”と読む。古くは“いづな”とも呼ばれていたようだ。近頃映画になった漫画『カムイ伝』の主人公、抜忍のカムイが使うのは“飯縄落とし”だが、こちらは“いづなおとし”だ。古くから忍術や剣術の修業の地として知られ、山岳信仰の霊山である。
 この山の標高を地元の子供たちはみな知っている。1917メートルは、ひくいな、と読めるからだ。地元の中学生が学校行事で登る山だが、決して楽な山ではない。冬は雪に覆われ死者が出るくらい厳しい山となる。

 この山が、実家からよく見える。特に冬の晴れた日、わたしの部屋の窓の向こうにそびえ立つ姿は、何とも言えず美しく、そして荘厳だった。
 実家は長野市の善光寺平の北部。この山から吹きおろす冷たい風が、いつまでも根雪を残す。
“飯縄おろし”の冷たさは、そのまま東京への憧れだった。
「東京は雪 滅多にふらねって」

 東京に出て来てずっと芝居をやっているが、自分の生まれた土地のことは、なかなか書けなかった。いや、書きたくなかったのだと思う。
 2002年に初演し、2004年の再演時には長野県でも公演をした。地元のメディアに取り上げられ、テレビでも新聞でもかなり大きく報道された。東京でもある程度の評価をいただいた。しかしやはりどこか気恥ずかしく、酸っぱく苦かった。
 山は登るためのものでもあるけれど、その向こう側の存在をどうしようもなく考えさせるものでもある。あの山の向こうに行きさえすれば・・・。

 山が見えない東京に、もう飯縄山を眺めて過ごした時間より長くいるが、漠然とした不安感は、まだ消えない。
 しかしそれが、この作品をまた上演しよう、皆さんに見てもらいたいと、高校を卒業して27年!のわたしが思う、原動力になっているに違いないのだ。

 ご来場ありがとうございます。窮屈な座席で申し訳ありません。最後までご覧いただけると本当に幸いです。
 今回は、男子高校生版・女子高校生版、2バージョンの公演です。底に横たわるものは同じでも、趣の違う、それぞれの魅力を持つ作品になったかと思っています。このバージョンをご覧になって、別の高校生たちにも会ってみたいと思われましたら、もう一度劇場に足をお運びいただければ、こんなに嬉しいことはありません。


『飯縄おろし』の作中で語られる“鬼女紅葉伝説”の概要です。
作中では以下の話を元に改変して使用。

【鬼女紅葉伝説】

信州は戸隠山に棲んでいたとされる伝説の鬼女が紅葉である。
第六天の魔王の申し子として生まれたとされる娘は、呉葉と名付けられ、貧しいながらも才色兼備と評判の娘に成長する。が、呉葉が15~16才になったころ彼女の鬼的な性格が現われる。
父の野望により上京。名を紅葉と改め、その美貌と才覚を生かし、源経基の寵愛を受けるに至る。さらに正室の御台所を呪いで苦しめて正室の座を狙うが、比叡山の僧に見抜かれ、信州戸隠に追放される。

経基との間に生まれた経若丸という子と父母とともに、信州でつつがなく暮らす紅葉だが、我が身を思うと京での栄華は遥かに遠い。次第に心を荒ませ、京に上るための軍資金を集めようと、一党を率いて戸隠山に籠り、夜な夜な他の村を荒しに出るようになる。この噂は戸隠の鬼女として京にまで伝わった。

盗賊になり金銀を盗み、やがては人の生き血をすする食人鬼となった紅葉の噂を聞き、平維茂が鬼女紅葉退治を命ぜられる。幻術を操る手強い紅葉だが、 維茂が振る神剣の一撃に首を跳ねられることとなった。 呉葉=紅葉33歳の晩秋であった。

プロMのMは・・・     丸尾 聡

   

 皆様、ご来場いただきまして本当にありがとうございます。

 “本邦初”とは申しませんが、小劇場でのオリジナルミュージカルの試みが、日本で珍しいものであることは間違いないと思われます。その公演を皆様と共有できることは喜びです。

 さて、これまでのわたしや劇団をご存じのお客様の中には、「プロジェクトMがミュージカル」と聞いて、驚いたり呆れたり、疑ったりひっくり返ったりなさった方がおいででしょう。そうです。普段は暗い芝居をやっている劇団です。暗い本を書いている作家です。

 まあ、今回も暗い芝居には違いございません。しかし、作・演出のモスクワカヌは、わたしのミュージカル用ペンネームでもなんでもなく、まさに生粋の新人であります。彼女の指向と資質の方向性を鑑みて、ミュージカルを企画したということはもちろんなのですが、実は、プロジェクトMのMはミュージカルのMなのです。


 思い起こせば、もう24年も前になります。大学時代。プロジェクトMという名前で芝居をやった劇団初の公演。今、文学座で俳優部長をしている高橋克明が主役でした。生バンドが入り(わたしもギターを弾いていました)、歌あり踊りあり。確かにミュージカル的なものにアプローチした芝居でありました。タイトルは『男と女 ~明け方のあなたに贈るちょっとした話』 。 うむ。ものすごく恥ずかしい……

 わたしの学んだ大学は、ミュージカルに熱心なところでした。オフ・ブロードウエイの作品の上演権をとり、翻訳して上演したこともありました。わたしも俳優として出演。ポテパルというエジプトの将軍役。経緯はわかりませんが、その作品は今、劇団四季が上演しています。

 そういえば、大学に入って初めて本格的にやった芝居もミュージカルでした。『オリバー』です。わたしはオリバーを売り飛ばす悪い男の役で、ソロがあったのですが、その稽古をピアノを弾いて熱心につけてくれたのが、今回の作曲/歌唱指導の濱田利枝さん。

 それから今に至るまで、劇団の外では何本も音楽劇やミュージカルの本を書き、演出をしてきました。濱田利枝さんと組んでの仕事も多く、また、今回の振付である工藤美和子さんとも何本か一緒にやっています。


 今回の作品は、Musical Playと銘打たれています。ただのミュージカルじゃない。新しい、小劇場で上演されるべきミュージカルに挑戦したいという決意です。

 無謀ではあります。ミュージカルはどうやったってお金がかかりますしね。ただ、無謀な挑戦を忘れてはいけないということを、今回の公演は思わせてくれました。その試みが、どうか皆様の胸に少しでも届けば、と願っています。そして、我々の挑戦と、モスクワカヌという作・演出家のデビューを、厳しくも暖かく見守っていただければ幸いです。

ご挨拶          モスクワカヌ

 ミュージカルが大嫌いだった。

 たぶん、小学生のころに学校のイベントでみせられた子供ミュージカルの影響だと思う。わたしは子供だったが、「夢は必ず叶う」だの、「愛がすべて」だの、その舞台で歌われること全てが嘘だということを知っていて、こちらが子供だからと言ってそれを信じさせようとする大人が大嫌いだったから、必然的にミュージカルも嫌いになった。

 今ではそれが偏見だったと思うが、ミュージカルとは、自分が素直に受け入れることができない「愛」とか「夢」とかいったものを、信じている人たちのための表現という印象がわたしの中にはずっとあった。

 ミュージカルが好きになったのは、その中で「痛み」や「絶望」や「悲しみ」を描いてもよいのだと気づいたとき。叫びたくても叫べない秘められた声が、歌とダンスの中でなら描けるのだ気づいたときだ。結局わたしが書きたいのは、愛されたいと願うことが絶望を深めることに繋がる、この世界の「痛み」なのだ。


 ミュージカルが嫌いだったうえに、人前で話すのが苦手なわたし。そんな自分が舞台を志し、しかもミュージカル・プレイの作・演出を務めているなんて、今更だが自分でも腑に落ちない。

 更に言うなら、この舞台がデビュー作となる自分が、妃宮麗子さん・縄田晋さんを始めとする素晴らしいキャストとスタッフに囲まれて本番を迎えられるのも、ほとんど奇跡に近いことだと思う。わたしにもし何がしかの才能があるとするならそれは、人に恵まれる才能だろう。

 悔しいのは、自分がこのキャスト・スタッフに見合うだけの演出家でなかったことだ。演出家としての経験不足も勿論だが、自分のコミュニケーション・スキルの低さを克服しきれなかった。舞台のことも、何より人間のことも、まだまだ勉強不足だ。

 それでも『この夜の終わりの美しい窓』の幕を、今日こうして皆様の前で上げることができるのは、舞台とは、一人で作るものではなかったから。大勢の人間が力を尽くした結果だと思っている。


 そして、本日ご来場くださった皆様。

 お客様の存在があって初めて、劇場という空間が完成します。最後になりましたが、本日はご来場いただき、本当にありがとうございます。

 モスクワカヌ。まだ誰も知らない名前だ。「私、名前にこだわりがないんです」と自ら付けた、冗談のようなペンネーム。高校演劇に脚本を書き下ろしたり、様々な公演で演出助手を務めたり、演劇のスキルを着々と養ってきた彼女が、このミュージカルプレイで本格的なデビューを飾る。

 こだわりがないと言いながら、本名でのデビューは涙を滲ませて拒んだ。苗字はともかく名前がどうしても嫌なのだという。音の響きも字面も、柔らかくきれいな名前なのに。
 その名で呼ばれ続けてきた生育歴を、消化できないのかもしれない。とある芝居を観たあとに、「“親は子供を気にかけている”“子供は親を慕っている”が前提で、私には共感できません」と語っていたこともある。

『この夜の終わりの美しい窓』は、ひとつの家族の肖像だ。どんなに恵まれた家族の中にも、地位の序列と愛の軽重と微かな憎悪は存在する。壊れた家族にならいっそう顕著に。
 映画産業の華やかな異国。深い森。閉ざされた屋敷。1940年代に女優であった母。寄宿舎や修道院に入れられた娘たち。美しい道具立てに囲まれればこそ、血を噴く傷と止まぬ痛みは露わになる。

 出演者もスタッフもキャリア充分。陣容の極めて整った公演となったのは、芸術監督の丸尾聡の力だ。日本劇作家協会の戯曲セミナーで、3年前に講師と受講生として出会った丸尾と彼女は、いまどき珍しいような師弟関係にある。

 日本には中産階級を描ける劇作家がほとんどいない。昼食がいつも100円うどんの彼女。生活状況はタイトだが、おそらくその方向の資質も備えている。モスクワカヌ。無機質な音の連なりが、個性を尊重する丸尾のサポートを受けたこの作品で、どんな色をまとうのか。一観客としても期待は大きい。

                        国松里香  

『 「甘い」話 』      丸尾聡

 長い間、自分は甘いものが余り好きではない、いやむしろ嫌いなのだと思い込んでいた。思い込んでいたというのは、どうも近頃、いや嫌いではない、むしろ本当は好きなのでは? と思い始めているからである。
 子供の頃はどうだったか。300円以内の決まりがあった遠足のお菓子、何を持っていくか、随分悩んだ。その範囲内でいかにたくさんの「甘さ」をたくさん詰め込めるか、その苦心であったような気がする。
 好きだったのだ。

 では、いつぐらいから、甘いものを嫌いになったのか。あるいは嫌いだと思い込んだのか。
 酒を飲むようになってからなのは間違いない。酒は、糖分を含むものが多いから、それだけで体が満足するということもある。しかし、やはり、27歳の頃から食を制限されていたことに大きく起因しているのは間違いない。炭水化物を分解する能力に欠けるわたしのからだと、糖質は相性が悪いのだ。
 ことに昨年入院してからは、炭水化物、つまり糖質を抑えてきた。一日180gは、一日でコンビニのオニギリ4つ分。これを食べてしまったら、リンゴもぶどうもジャガイモもレンコンもビールもワインもダメ。そう、お菓子も。

 今年のバレンタイン。打合せを含め、二軒はしごすることになった。
久しぶりにしたたかに酩酊した私は、家に帰って、一口と思ってチョコレートを食べた。あっという間だった。一枚の板チョコを完全にすべて、むさぼるように食べ終わっていた。
「甘い」 口に出して言った。その瞬間は笑っていたかもしれぬ。
 やはり、おそらくだけれども、甘いものが好きなのだ。
 本当に甘かったよ。

 さて。
 今回の芝居は、「甘い」お話です。糖尿病のパティシエと味覚障害の女性の話がこうなるとは、一年前の企画時、作者である私自身も考えていませんでした。
 本日は、ご来場いただきありがとうございます。
 最近の小劇場では少し長い芝居となりますが、どうか最後までご覧ください。


現代日本と革命期のパリと植民時代のカリブを、“甘み”でつないだ『離宮のタルト』。
作品背景を巡る年表です。


【西インド諸島】
1492年 コロンブスが西インド諸島に到達
1502年 黒人奴隷貿易が始まる
1501年 「新世界」刊行
1507年 新大陸を「アメリカ」と命名

16世紀 スペインがメキシコ・ペルーで鉱山開発に黒人奴隷を導入
    ポルトガルがブラジルの砂糖プランテーションに黒人奴隷を導入
    奴隷貿易の拡大
17世紀 ヴァージニアのタバコプランテーションに黒人奴隷を導入
18世紀 カリブ海地域で砂糖プランンテーションが発達
    奴隷貿易が最盛期を迎える

【アフリカからアメリカにかけて】
1775年 アメリカ独立戦争開始/独立宣言
1778年 米仏同盟締結
1783年 パリ条約(アメリカの独立を承認)
1807年 イギリスとアメリカで奴隷貿易の禁止
1863年 アメリカ南北戦争/独立解放宣言
1948年 世界人権宣言=第4条に奴隷貿易と奴隷制の廃止

【ヨーロッパ】
1755年 マリー・アントワネット(マリア・アントニア)誕生
1770年 ルイ・オーギュストとマリー・アントワネットの結婚式挙行
1774年 ルイ十六世即位、マリー・アントワネットが王妃に
1778年 長女マリー・テレーズ・シャルロット誕生
1789年 ヴェルサイユ宮殿で三部会が招集される
    球戯場の誓い/バスティーユ要塞陥落、フランス革命始まる
1790年 三色旗を国旗に制定
1792年 ギロチンの使用始まる
1793年  ルイ十六世有罪を可決、処刑
    マリー・アントワネット、革命広場で処刑(38歳)

幸福の味覚

 砂糖の誕生は紀元前2000年とも言われている。それから数千年にわたり、途方もない貴重品だった。400年前に砂糖を口にできたのは王侯貴族や裕福な商人。そして病人。そのカロリーの高さゆえに、砂糖は薬でもあったのだ。奴隷制度とともに普及した砂糖は、今やヘルシーとはほど遠い存在。“糖質0”が飲料やキャンディの売りになる。

 この芝居には、自分の作ったスイーツを存分に食べられないパティシエが登場する。甘みは味覚の中で最も優しく快い。幸福の味覚だ。だが甘く美しく幸福なスイーツを作り出すことを目指して試食を重ねた結果、病気となってそれを享受できなくなるパラドクス。

 作/演出の丸尾聡も、食事制限の必要な病気を抱えている。6〜7年前、初めての入院加療が決まった日の、病院からの帰り道。彼の当時のパートナーが、ザッハトルテを買いに行こうと言い出したという。病院の近くに有名なパティスリーがあったのだ。「いや行かなかったよ。俺が黙ってたから。だって入院するときにそんなさあ」と彼は言う。「でも翌日こっそり買いに行って食べたみたい」。
 彼女の気持ちも理解できる。相手に気を使った食生活が始まろうとするときだ。食べたいものを食べておきたいのも当然だろう。ザッハトルテは定評通り美味だったに違いない。けれどおそらく、ひとり隠れて食したそれに、幸福の味はしなかった。

 パティシエの恋人は味覚に障害を持っていて、甘さを感じることはない。からい、すっぱい、にがいだけで構成された寂しい味覚の中にいて、甘みへの渇望も持っていない。
 この芝居は、屈託なく味わえる幸福を持たないあまたの人々に通じる寓話、なのかもしれない。個人的には、“今”“ここ”に救いなど存在しないように見える。果たして彼女が甘みを取り戻すことはあるのか。ふたりは救われるのか。
 劇場にはきっと、丸尾の出した答えがあるだろう。

                                 国松里香

静岡県浜松市から発信のFM Haro!で、丸尾聡のラジオエッセイ定期的に放送中

木内琴子のライフタイムストーリー

  毎週水曜11:30〜/周波数:76.1MHz/
  URL http://www.fmharo.co.jp/lifetime/lifetime.html

料理の話        丸尾聡


料理というものをしてみたのは、いつからだったのか。

母親に訊かれた。
「あんたたち、東京に行く?」
十の時だった。
それが、旅行の話などではなく、移り住むかどうかの話だとわかったとき、三つ下の弟と私はこういったと思う。
「いやだ、いやだ」

結局、父は、祖母と一緒に東京にいった。三年で戻るはずが、それから七年。私が高校一年生の時まで、父とは月に一度か二度会う生活になった。
母が長野に残ったのは、私たちが嫌がったこともあっただろうが、やはり自分の仕事を続けたかったことが大きかったのだろう。

母は教員だったから、会議やなにかで帰りが遅い日があった。
寂しくもあったが、その日は、近くの「日本橋」というレストランから好きな物を出前してもらうことが出来たので、楽しみでもあった。

あれは、なぜだったのだろう。「僕が作る」と言ったのかどうか。
最初に覚えた料理は、目玉焼きとほうれん草ソテー。次が、コンビーフとコーンの炒め物だったことはよく覚えている。
たしか家庭科の時間に目玉焼きをほめられたのだ。
「形がいいね」
好きな先生だった。

家に弟と二人。手を切らないようにコンビーフの缶を開けた。
コーンの缶詰を開けるとき、「温めたらいいのではないか」という考えが浮かんだのだと思う。
缶詰をそのまま、オーブントースターに入れた。
「もうじきあったかいコーンができるからな」
弟と二人、だんだん膨らんでいく缶を見ていたと思う。
そして、爆発した。弟は火傷して泣いた。 もしかするとその時、私は離れた場所にいたのかもしれない。弟の手を流しっぱなしの水道で冷やしながら、「お母さんにはいうなよ、な、お母さんにはいうなよ」
その後のことは覚えていない。たぶんひどく怒られたはずだ。

それが「記憶」。料理のはじめの記憶。

いや、もしかするとあれかもしれない。
カレーがあった。家のカレーを作る鍋は決まっていて、厚みが一センチ程もある鉄の鍋だった。その鍋がコンロにかけられていた。もうできあがっていて火はついていない。
一人、だったと思う。その後の食卓には、母と弟と三人でいたような気がするから、やはり父が東京に行ったあとだったのだろう。

私は家のカレーがあまり好きではなかった。
だから、美味しくしたかったのだと思う。
いや、まずいからというのではなく、美味しいカレーを食べてもらいたかったからだという気が、今になればする。
いろいろなものを入れたはずだ。冷蔵庫にあった調味料やカレー粉も足した。
味見をした。確かに美味しかった。
「あとは、煮込むんだ」

母と弟がカレーを食べた。
「ねえ、美味しくなったでしょう、ねえ」
弟は困ったような顔をし、母は怒ったような顔して言った。
「まずい」
たしかにカレーは焦げ臭かった。まずかった。
そういう「記憶」。

高校の演劇部の合宿。
カレーを作った.。工夫の甲斐があったのだと思う。
一口食べて「やったな、丸尾」と同級生が言った。
顧問の先生が「丸尾、こういうカレーはソースをかけちゃいかんのか」と言った。

女房と別れるときに、彼女はこう言った。
「あなたの料理が食べられなくなるのだけが、残念」
だけかよ、と思った。

私は食べるのが好きだ。だが、もう食べる人ではなくなっている。それは病気のこともある。
けれど、そうだ。やはり私は食べてもらうのが好きなのだ。
私は嫌いな人に料理を作ったことがない。私の料理を食べたことがある人は、うん、みな私が好きな人たちばかりだ。

「おいしいよ」
そう言ってほしいから作り続けているのだ。
いや、カレーばかりじゃないんですがね、作るのは。

さて、「料理人」である。
岸田理生さんの作品を書き直した。違う構造を加えたといってもいい。
どう料理したか、などというのは僭越なのだが、M版「料理人」を味わって頂ければ嬉しい。
皆様、お忙しいところご来場ありがとうございます。どうか最後までごゆっくりご覧ください。

2008年6月25日
初日まで10日を切りました。
血を吐きつつの稽古です、
比喩ではなくて。
丸尾 聡 


食べるとはなにか?

ということと向かい合い続けている。
いや、実に面白い。
本当に楽しいことや、本当につらいこと。
忘れられない記憶が巡る。

だから、この芝居、実にア・ラ・カルトだ。いろいろだ。
SFであり、本質的にコメディであり、悲劇であり、
そして、一筋縄ではわからぬシーンもあり、
わかりすぎるだろう、という部分もある。

それらが奏でる。
舌だけではない。身体全体に奏でる。オーケストラを。

岸田理生の書いた言葉を残した。
そして解体し、取り払った。
これはプロジェクトMの世界である。

心して見ていただきたい。

心して見るのがお嫌な方は、心しないで見てほしい。

だが、それでも、「た・べ・た・い」。
心のどこかがうごめくはずだ。

共有したい。
反発もされたい。
一緒に食べたい。

劇場でお待ちしています。


なぜ「料理人」なのか
というようなことを、
役者さんやスタッフや関係者に言われ・・・
でも、やりますよ、面白いと思うもの。
丸尾 聡 



さあ、「料理人」である。
今、「公演に向けて」の文章を書かねばならぬらしい。
本当は、作家や演出家は作品で語ればいいのであって、「いや、この作品は」と書いたりしゃべったりするのは、恥ずかしい。
だから、本番まではできるだけ、周辺情報はともかく、黙っていたいのだが、そうもいかないらしい。
「とにかく早く書いて下さい」
「明日じゃ駄目?」
「全然、駄目です」
制作協力のK女史とリニューアルHP制作を依頼している「ツジ」の、連日のメールやり取りを見ていると、わがままも言っていられないのである。
そうだ、しかも、私はプロデューサー。宣伝せねばならぬ。

岸田理生が書いた『料理人』は、もうずいぶん前の作品だ。
1988年だから、もう20年近く前。
どんな年か。
リクルート疑惑と長渕の「乾杯」、村上春樹の「ノルウエーの森」、「ラストエンペラー」。カップ麺の大型化始まる。(つまり今の1.5倍とか、ああいうのはなかったんですな昔)。
公演は、12月のベニサンピット。年が明けると、そう。平成元年。
「ドラクエ」の年、というと記憶がよみがえる方もあるだろう。バンドブーム「イカ天」最盛期だとどうか。美空ひばりさん死去、消費税スタート、ベルリンの壁崩壊、東西冷戦終結宣言・・・

食べ物の関係で言えば、こんな年。
もつ鍋ブーム、イタリア料理流行(イタメシという言葉も生まれる、この年初めて赤ワインを飲んだ日本人は多いはず)、缶ジュースのプルタブが缶から外れないタイプが登場、米の販売、15キロ以下に限りコンビニ等でも販売可能に、(つまりそれまでは米屋しか駄目だったのだ)、キャビアのコピー食品発売、岡山県で有機栽培野菜に全国で初の合格証交付はじめる、などなど。

今に至る芽が吹き出しつつある、か。

『私たちは、さまざまな物を食べています』
岸田理生は書いている。
『・・・生きるために食べ、食べるために生き、死んでいきます』
そう、かつて人はそうだった。食べる、ことは、命を長らえさせることと等しく同じだった。
『何を食べるか? と日々思い悩むことはあっても、何故、食べるかと考えることは余りないようです』
食糧に満ち満ちている社会。だが、本来的に言えば人類は、溢れんばかりの食物に埋もれることを長い間の「目標」として「夢」として生きて来た。
そして、時代はいつのまにか転換していた。
食べてはいけない病気が普通のこととなり、何を食べるかを選択しなければいけない、危険性も含めたさまざまな食物が世に溢れる時代となった・・・

食べ物がなければ、「引きこもり」なんて起こらない・・・

「もし・・・。もし食べることを禁じられていたら?」
「錠剤が発明され、それを飲んでさえいれば生きられるから、食うな、と命じられたらどうなるのだろう?」

理生さんは、それを書いた。
恐らく違うものになるだろう、この同じ問いかけに対する答えは。
20年を経た今、2008年において。
これが、丸尾がこの戯曲をあえてやる理由なのだ。

面白くなるはずである。
芝居には、ギョーザ事件も中国への米輸入自由化も狂牛病もメタボリック検査も出てこない。(あ、出て来るかもしれないがね)

去年のリオ/DNAに比べると、ぐっと芝居っぽい作品になるだろう。
だが、ダンサー、音楽、照明など、演出面で、いつものプロジェクトMとは違う一面を、堪能して頂けるに違いない。

本当に、
本当に、
乞うご期待だ。

劇場でお待ちしています。

『食卓のない世界』

 岸田理生の好物は“こんにゃく”だった。「誰かが食べようとすると、理生さんったら“あたしのこんにゃく取らないで”ってね」と、生前の彼女を知る人々は語る。  食は非常に細いものの質にはこだわる美食家で、赤ワインを好んだという彼女だが、一番の好物はこんにゃく。半透明に無機的で、100グラムわずか5カロリーの、食感だけの食べ物。  その岸田理生の作品を構成・演出する丸尾聡は、旺盛な食欲を持つ健啖家だが、食を制限される病気を抱えている。  自ら作る料理は摂生の見本のようなものだけれど、さんざん飲み食いしたはずの宴席のあと、「腹が減った。なんにも食べてない」と言い出して、ラーメン屋や牛丼屋に向かおうとすることがある。止められると酩酊の中に本気の滲んだ声を出す。「俺はなんにも食べちゃいけないっていうのかよぅ。なんで食べさせてくれないんだよぅ」。

 ヒトにはカロリーの摂取ができずに命を落とした、長い長い歴史がある。だからよりエネルギーになるもの、よりカロリーの高いものを求める習性が、DNAの奥深く組み込まれている。  彼女の一番の好物にどこか違和感を覚えるのも、あるいはそのせいなのかもしれない。そして彼も、最たるエネルギー源である炭水化物と糖質とを、お酒の席でも避けているから、“なんにも食べてない”気が去らないのだろう。

 食が禁忌である世界を描いた『料理人』。数錠のサプリメントで摂取カロリーは適正値。腹は満ちて飢えはない。けれどその世界の人々は“食べたい”のだ。なぜなら彼らは、ともに囲むテーブルを失うと同時に、人同士の繋がりを生む場をも失ってしまったから。ひとりで食べる食事なしでは、孤独を身に沁ませることさえできないから。

 拒食症気味でひとりの食事はごく適当だったが、来客があれば料理の腕を振るったという岸田理生。自分が制限されている料理の並ぶ宴席にも、付き合いよく加わる丸尾聡。“食”に脆さを抱えるふたりなれば、それが人同士の繋がりの根幹であることを身をもって知っている。  彼女が戯曲に置いた数々のエピソードを、彼は咀嚼し消化し血肉とし、“食べたい”という切なる気持ちが、どこから来てどこに向かってゆくのかを、示してくれるに違いない。

                                (国松里香)

今、私は粉雪舞いちる松本市で、これを書いている。

3月20日の長野市ネオンホール、3月23日の松本ピカデリーホールでの「ファイル/残置物処理班」の公演に向けて、宣伝活動にやってきたのだ。
芸術館にチラシを置かせてもらい、地元のメディアを廻り、市民劇場にチケットを預かってもらい、劇場に挨拶に行く。夜は、地元の協力者、劇団関係者と飲みに行く予定だ。昼はそばを食べた。
松本は、およそ三年ぶり。
ちょっと甘酸っぱいような懐かしさ。“蔵の街”。明日は長野市に行く。

私は、長野市の生まれ。高校卒業までを過ごした。
もう、長野よりも今住んでいる場所のほうが長くなってしまった。寒さにも弱くなった。
東京に出て行った頃は、「東京って全然寒くねえなあ」と感じたものだ。
だが、いまや、寒さに対しては「並」である。

松本では、現代松本演劇フェスティバルで初めて公演をした。
1989年と90年だったと思う。記者会見で如月小春さんと一緒だったことや、唐十朗さんと取材先のテレビ局に行く時、二人でタクシーに乗ったことなど思いだす。あの時からお世話になっていた方に、今回もお世話になるのだから、いや、なんというか、人とのつながりは有り難い。

長野市での公演は、それよりずっと遅かった。生まれ故郷は恥ずかしい。
2004年に『飯綱おろし』、2005年に『Life Cycle』。
『飯綱おろし』で初めて田舎の言葉を使って本を書いた。信越放送のニュース番組で、芝居の映像と私のインタビューが流れた。
この地元のテレビ局は父が勤務していた会社。

さて、そういうわけで久しぶりの信州ツアーだ。
『ファイル/残置物処理班』
孤独死した人の遺留品を片付ける仕事、それに携わる人間の話。
東京、横浜の公演は、大入りで、好評をいただいた。とにかく見ていただければと思う。
怪しげな長野弁?をしゃべる、松本出身の小澤浩明も出演している。

故郷での公演は、やはり肩に力が入る。
しかし、いい意味で俳優にもそれが伝わるのか、これまでの長野、松本の公演は、良い舞台になることが多かった。今回も東京や横浜のお客さんとは、明らかに違う観客の前で、芝居が出来ることは、本当に喜びだ。

長野、松本の皆様、ぜひ劇場でお会いしましょう。
東京からも遠くないです。どちらも二時間かからない。
長野は善光寺に行き蕎麦を食べ、松本では松本城へのぼり、馬のレバ刺しをやってください。

お待ちしております。

「ザンチ」という言葉を最初に耳にしたのはいつだったか。 「なに、それ?」
漢字が浮かばなかった。
稽古帰りの居酒屋であったと思う。
何人かの役者が、昼間「ザンチ」を処理するアルバイトをしてから稽古場に来ていたのだ。

「ああ、残置か」
残置物、「残し」「置かれた」もの。

あれから、もう五年程は経つはずだ。
芝居の企画として考えたあと、しばらくしてNHKで「若年孤独死」のドキュメンタリーが放送され、
話題を呼んだ。

「残置物」。
何らかの理由で、そこに住んでいたものが姿を消し、残された遺留品。
(チラシ裏の国松女史の文書もぜひ読んでほしい。)

話を聞いて、残ったのは「ざらざらした感じ」
それが何であるかわかるのにも、しばらくかかった。

「一人団地の一室で」
たしかに孤独死は大きな社会的な問題なのだろう。
すでに行政にも動きがある。

ただ、「ざらざらした感じ」は、あまりに多くの事例そのものへの思いとは、別のような気がした。

そして、私の中では、ごく自然に今回のタイトルが決まった。
「ファイル 残置物処理班」

孤独に死んでいった人たちではなく、それを見つめざるをえない、彼らのことを書こう。

そうしてこの芝居は始まった。

今はまだ作家として戦っている最中だ。

期待していただきたい。

丸尾聡

『そこに立ちこめるもの』

 失踪、自殺、孤独死、そして推し量ることのできない理由から、住居の主が、消えてしまうことがある。しかし “物”は、“置”かれたまま“残”る。家具や生活用品や食品や思い出そのものだった品々は、用途も意味も失い、みな一括りに“残置物”と名を変える。

 それを聞いたのは、劇作家の取材に同行したときだ。自殺や孤独死のニュースならば頻繁に耳にする。だが私は、取材対象の青年が従事する職の存在を知らなかった。

 ー残置物処理班ー

 引き取り手の現れない住居が彼らの仕事場だ。自治体から委託を受けて業務を行なう、青年の勤める民間会社の年間処理件数は200件以上。「人は毎日、残置物をのこして死んでいる」と彼は言った。

 残置物を廃棄すること。住居を完全に空(から)にすること。生の痕跡をゼロにすること。それは「無感情でする仕事」だ。死者が2週間浸かっていた風呂桶を清掃する。皮膚と体液とが溶け込んだどろどろの水に、手を差し入れて栓を抜く。「やれば金が貰えるということしか考えない」。
 彼が嫌だとあげた品は、表札、壁の写真、アルバム、書き込みのあるカレンダー、自分が使っているものと同じシャンプーのボトル。消えた人間を立体的にする品だ。生者が死者を愛しく思うための品、かつては形見と呼ばれたはずの品々は、受け継ぐ者の現れない住居の中で、悲しい残置物になったのだと私は思った。

 処理を終えると、残置物を積んだトラックにも、自分自身の体にも、消臭剤をひたすらに吹きつけるのだそうだ。主を失い、空気の動かなかった住居には、独特のうとましい匂いがあるからだという。「自分の体に滲みついた匂いを、人に絶対に知られたくないんです」と彼は言った。その匂いを、私は知りたい。きっと匂いの濃く立ちこめるであろうこの舞台で。

    
(国松里香)
『ごめんなさい』

また、岸田理生さんの作品と向き合える機会を得た。
理生さんを偲ぶ会の宗方さん曰く、
「どう使ってもらってもいいですよ。戯曲をただ上演するのではなく。遊んで下さい」
「そうですか。じゃあ、理生さんと韓国の話を絡めて、詩も入れてダンサー使って、BANKARTですし、パフォーマンスをやります」
リオ/KOREAというタイトルも、もうその場で口に出していた と思う。
リオさんの生涯、韓国との出会い、作品の時系列にそったコラージュ・・・。
それだけ決めて、膨大な戯曲の断片をテキストにして、稽古へ。

稽古はひと月。
いつもの演劇公演とは勝手が違う、話し合いや考えていることが多い稽古となった。
結果、曲解と誤読の作品となった。
ごめんなさい。
顔をしかめられる方もいるかもしれぬ。特に理生さんと、おつきあいの深かった方々は。
「アバンギャルド」に免じて許してほしい。
ごめんなさい。

でも、理生さん、またあなたの言葉に遊ばせてもらいました。愉しい時間です。
そう、これは僕の「リオ/DNA」です。
ごめんなさい。
タイトルを変更しました。
ごめんなさい。ありがとう。さようなら。また会う日まで。

 
丸尾聡
『京城苑の純さんの話』

 本日は御来場ありがとうございます。どうか最後までゆっくりとご覧下さい。さて、これから書くことは、半分、芝居のネタバラシになるので、そういうのが嫌いな人は終演後に読んでもらえれば思います。

 僕の通っていた大学から、しばらく歩くと、「京城苑」という焼き肉屋があった。大学といっても演劇科だから、年がら年中芝居をし、稽古(一応授業なのだけれど)が終わると飲んでいた。まず、近くのたまり場だった「COSMOS」というレストランか「養老の滝」で飲んで、次の店は「オレンジ」か「コティ」。「コティ」はカラオケのあるスナックで、おばあちゃんのぬか漬けを食べながらウイスキーを飲んだ。
「奥飛騨慕情」を歌っていた盲目の演歌歌手、竜鉄也さんがよく来ていて、生まれて初めてブランデーを飲ませてもらった。「釜山港へ帰れ」を初めて聞いたのもこの店で竜さんのカラオケだった。それから、まだ飲み足りなければ行く店が、「京城苑」か「フローレンス」に行く。大学から離れれば離れるほど、店が遅くまでやっていた。
 もう、今では考えられないことなのだろうけれど、僕は大学の校舎の鍵を持っていて、朝方大学に戻って寝た。大学にはスタジオがあって、その奥に小部屋があり、そこに自分の机を勝手に置いていたのだ。大学に戻らないときは、近くに住んでいた女の子の家に転がり込む。携帯電話などない時代だから、朝方ドアをがんがん叩いて開けてもらう。どの娘とも寝ていたわけじゃないが、その日の気分で勝手に寝場所を決めていたのだから、みんな優しかった。
 「京城苑」の話だ。お金に困るとこの店に行った。ビールが安かったと思う。それでも、つまみは頼めない。ビールだけ飲んでいると、純さんがキムチを出してくれる。「もう酸っぱくなったから店ではだせん。
マル、食え」と乱暴に皿を置くのだ。キムチは酸っぱいときもあったが、酸っぱくないときの方が多かった。純さんは、幼い頃、朝鮮半島から日本にやってきたと言った。旦那は、もう亡くなっていて、一人で、6人ばかり座れるカウンターと、その奥の4人座れば肩が触れあうような小上がりのある店をやっていた。昔は、ホステスをやっていたらしい。そのころ知り合ったという日本人のヤクザの幹部が時々店に来た。 「マル、なんかあれば菊池にいいな」。そのヤクザも、なぜだか優しかった。二度、助けてもらった。

 「マル、何を泣いているのか。それじゃ、スープ飲め」
 ユッケジャンクッパのご飯抜きの辛いスープを何度も出してもらった。芝居でのどが嗄れているときも、飲めという。炎症を起こした声帯にはよくなかったが、不思議と元気になった。この店のキムチ、ナムル、スープより美味いものを、あれから20年以上経ったが食べたことがない。
 純さんの葬式は、寂しかった。60をいくつか過ぎたところだったと思う。数か月前に店を人に譲り、そのお金で老後を始めたところだった。店を閉める前は、大好きだった甘いコーヒーに角砂糖を一つしか入れてはいけないと医者に言われたとかで、本当に苦そうにコーヒーを飲んでいた。
 葬式は、店の近くの純さんのアパートだった。僕はあんなに間近に死んだ人を見たのも初めてだったかもしれない。小さな祭壇があったが、一部屋しかないアパートは狭く、その真ん中に、もう動かない純さんの棺があった。息子さん。大学の先輩で、今は声優で活躍しているOさん、劇団を主宰しているC。それから店の常連だったT大学でモリエールの研究をしていた教授。それに僕。出棺に立ち会ったのは五人だった。息子さんのお嫁さんはどうして来ないんだろうと思った。後から、お嫁さんは日本人で、純さんと息子さんは、縁が切れた状態だったと聞いた。純さんのアパートの壁に、ぶら下がっていた身欠きニシンは、Oさんの田舎のお土産だった。渡したのは半年も前だったが「お正月に食べるんだ」と純さんはとっておいたらしい。
 「身欠きニシンなんて、安い、普通の食べ物だよ。たべりゃよかったんだ」
 一番純さんと仲がよかったOさんが、怒ったように目を閉じた純さんに言った。しばらくして息子さんから桃の缶詰が送られてきた。全く知らない日本人の名前で、店に貼ってあった衛生責任者の「ゆん順」と違う名字だったので、しばらく誰が、なぜ、おくってくれたのかわからなかった。
 僕の生まれ育った中には、在日コーリアンの友達もいなくて、彼らの部落も学校もなかった。学校でも何も教わらなかったし、何も知らなかった。純さんが初めて僕が会って、話した、「外国人」だった。
 それから、僕は「在日」の娘とつきあったりして、いろんなことを考えた。でも、やむにやまれぬ気持ちとか、正義とか、社会的な主張とか、僕の中には、これっぽっちもなくて、それじゃいけないという気持ちはあるけれど、極めて、人間の「個人的な」お話を書いたつもりだ。
 それでも今回の台本は大苦戦だった。書けなかった。しかし、その分、少しは面白いかもしれない。

丸尾聡
『桜の話』

「桜」ブームだと聞きます。
桜を題材にした歌が、ここ何年かずいぶんヒットしています。散るにしろ、咲くにしろ、その美しさを正面から取り上げた、そんな歌が多いのではないでしょうか。
確かに桜は美しい。しかし、これ、本当にここ数年の現象のようです。「桜」にとって不遇な時代があったと言えばいいんでしょうか。私の両親の世代は、もう少し「桜」に特別な感慨を持っていたのです。

 「だから、花見というのは墓参りと同義語と言えるのである」
神社に桜、お墓に桜というのは、どうもつきもののような気が私たちにはしていますが、あれはほとんど人間の手によって植樹されたもののようです。京都は「花見」発祥の地ですから、今でも山の桜畑を見るのはごく普通の感覚のようです。しかし関東、特に東京では、桜は夭折した死者の魂を慰めるために「戦後」に植えられました。このことは大貫恵美子さんの「ねじ曲げられた桜 美意識と軍国主義」に詳しいですが、「君が代」が元々は熊本県の民謡であったように、「桜」もまさに「ねじ曲げられてきた」時代があったのです。詳細はさけますが、梶井基次郎の有名な「桜の木の下には屍体が埋まっている!」をうまく利用 したんでしょうね。

日本人は、桜が好きですが、昔日本では、花といえば梅をさしました。万葉集に詠まれている花のなかで、一説によれば、桜は41首、梅は116首であると言います。梅も桜も中国大陸から渡ってきたものですが、桜の渡来は、若干遅く、やがて古今和歌集の頃には、桜は梅を逆転し、もっとも日本人の心に根付く花になったようです。なにか合うものがあったんでしょうね。桜は、人の「映し身」として、可憐な女性に例えられ、そこには「死」という概念はまったく立ち入ることはなかったようです。「桜」と「死」が結びついていくのは、江戸時代にその芽がありました。
「花は桜木、人は武士」 最も「夜鷹」、つまり遊女は「夜桜」に例えられたようですから、この時代もまだまだ「桜」は女性の象徴だったようです。ちなみに、今日本に一番多い桜は、幕末に京都の吉野の桜から江戸の植木屋が作り出した「ソメイヨシノ」です。

これまでのことを考えれば、戦後の日本文学で桜を取り上げた作品は、驚くほど少なくなっています。そして、取り上げられた作品の多くには、死の概念が否応無く組み込まれ、あるいは「桜」を否定するものが多いのではないかというのが、私の感想です。太宰治は「桜の花はカエルの卵のようだ」と書いていますし。

今「桜」は、私たちの手に戻ってきつつあります。けれど、このブームはどこか異常であるような気もしています。それは、桜をただただ愛でていればいい時代が、変わることへの恐れといったら、うがちすぎなのでしょうか。
今年は、ずいぶん桜を見ました。桜は美しいし、それ故にどこか恐ろしいですが、この花を「きれいだなあ」とだけ言って、見ていられたらと思います。

本日はお忙しいところをご来場いただきましてありがとうございます。
どうか最後までゆっくりとご覧下さい。桜が咲かない時代のお話です。
丸尾聡
『「小林さん」の事』

 小林さんは、実にたくさんの芝居に出演してこられた。今年はさすがにペースが落ちたらしいが、つい数年前は一年に七本もの芝居に出ていたこともあったはずだ。これは、芝居をやっておられる方ならばわかるだろうが、無茶である。実は今年になって、二本の芝居を掛け持ちするという無茶もあった。が、是非はともかく、かなりヘビーな二つの役をやり遂げていたから困る。困るというのは、何が困るかというと、もう若くはないからというのと、出ればいいってもんじゃない、もう選んでもいいんじゃないですか、という事もあるのだ。しかし、小林さんはこういう。
 「味で呼ばれる、勝負するような役者にだけはならない」
 何年か前、テアトロ誌に小林さんの日常の鍛錬ぶりを書いた。六十を超えた尊敬すべき俳優の現在の嘆きは、トレーニングをする時間が十分に取れないことのようだ。
 小林さんの多岐にわたる出演劇団の中でも、この五年ほどは、やはりうちの劇団に出ている回数が一番多いだろう。「居酒屋物語」の初演が最初だった。結婚したいけれどできないシゲさんという役は、これまでの役どころとは違ったようで、四苦八苦しながらも挑戦してくれた。それから、私はずっと小林さんのガラにあった役など書いたことがない。小林さんは決して器用な役者さんではないが、いつも挑戦してもらい、新たに作ってもらいたかった。そして、単に演出家と俳優というだけではない、本やキャスティング含めた芝居作りの仲間として(おこがましいが)、一緒にやってきた。それは楽しく、私を成長させてくれる作業であった。このLife Cycleの初演の初演、本の上がりが遅くて私は稽古中あせっていた。すると小林さんが「あのシーン、あれはマルちゃんが見つけたマルの時間だ。大切にしたほうがいい」と電話をくれた。この事を私は忘れないだろうと思う。
 さて、その小林さんも、普通であれば赤いチャンチャンコを着る年になった。いや実は、それは昨年なのだが、節目の祝いではなく、節目をすぎてなお行きましょう、という事で、今回の公演は「小林達雄スペシャル」である。小林さんとこれまで舞台で一緒だった皆さん、客席からご覧だった皆さん、ぜひご覧ください。本人は体動く限り、味などで勝負しない俳優として、もう一踏ん張りするつもりでいます。
 小林さんは、私の郷土の先輩でもある。新装なったシアターグリーンでの公演の後は、私たちのふるさと長野での公演がある。また何度も演フェスで訪れた松本公演。楽しみなのだ。
 ちなみに、小林さんは、うち以外では「達雄さん」「たっちゃん」であるが、うちではみな「小林さん」です。「達雄」と呼び捨てにされることも稀にはありますが、これ、みなすべて尊敬の念から出ています。

丸尾聡
『理生さんの話』

 チラシにも書いたのだが、もう少し理生さんの話を書こうと思う。
 まず、私も理生さんと同じ長野県の出身だ。これは岸田理生カンパニーのメンバーで、もうこの五年ほどプロジェクトMでもレギュラーとして出演して頂いている小林達雄さんも同じだ。
 しかし何より告白しなければなるまい。実は私、この芝居「鳥よ鳥よ青い鳥よ」を観ていない。昨年から始まった理生さんの作品の連続上演。計十作は上演されるはずだ。私だけだろうな、見ていない作品を演出するのは。しかし、それでいいのだ。そうでなければ「続いていく」はずもない。
 昨年の岸田理生さんを偲ぶ会「水妖忌」で配られた資料によると、
------実は、わたしはこれにも参加していない。わたしなどが行っても良いのかと、お誘い頂いていたが遠慮した------
1994年10月21日~23日、さいたま劇場プロデュースによって、「鳥よ鳥よ青い鳥よ」の初演は行われた。彩の国さいたま劇場小ホールの柿落とし公演である。上演にいたる経緯は、なかなかにいろいろとあったと岸田さん側で制作をしていた宗方氏から聞いた。そう、これを私は見ていない。うちの公演を大阪から見に来てくれる方がいるのだが、曰く「あの公演を見て以来、演劇にはまったんですわ。丸尾さん、もう頼んますでぇ」という公演だったらしい。
 「鳥よ」は理生さん自身のプロデュースではなかったため、何年かは上演できないといった決めごともあり、その後、なかなか再演されなかった。
 そして2001年2月「ソラ・ハヌル・ランギット」の上演となる。以下は、このタイトルはどういう意味ですか? という私のメールに対する宗方氏のお返事。

「ソラ・ハヌル・ランギット」の「ソラ」は日本語で空、「ハヌル」は韓国語で空、「ランギット」はマレー語で空を意味する言葉です。
当初、韓国人とマレー系シンガポール人を呼ぶ予定だったので、こうなりました。実際には中国系シンガポール人だったので、ほんとうは北京語か広東語の空に直さなくちゃいけなかったんですが、時既に遅しだったのです(笑)。

この芝居は、「鳥よ鳥よ青い鳥よ」の改訂版といえる作品で、私はこれを見た。小林達雄さんが、直前に骨折をし松葉杖をついての出演だったこともよく覚えている。奇しくもここ、こまばアゴラ劇場での公演だった。シンガポールのオン・ケン・センの秘蔵っ子だという俳優が、脚立のもう5センチくらいしか間がないすぐ横で、ピルエットを何十回も回り続けるのだが、まったくぶつかりそうな気配がしない。あれは不思議な体験だった。小林さんの「さようなら」という言葉の新鮮さも忘れがたい。タイトルの「空」。今回の劇中に登場するイ・ユクサの詩も、空のどこまでも深く昇っていく青、そしてその青に映えるまぶしい白が基調となっている。理生さんの頭にもそれがあったのではないか。

 今回、そのアゴラ劇場での、連続作品上演の企画に参加させてもらえることになった。わたしたちは、昨年の別役実さんから、外部の作家の戯曲に挑戦する試みを始めている。その二回目が岸田理生作品になるとは、当初は思いもしなかったことだ。望外の喜びである。
 が、言葉にこだわっていこうと思っている私たちに、示唆を与えてくれた一人は間違いなく岸田理生であった。身体と心、言葉と動きは繋がっているなどというものではなく、一つのものなのだ、ということを改めて、理生さんが残してくれた戯曲は私たちに教えてくれる。
 稽古場では、日々、あらたな発見に恵まれ、今は無き魂の息吹を感じている。いやあ、面白い。ありがとうございます、理生さん。

 本日はご来場いただきましてありがとうございます。岸田理生作品を知っておられる方も初めての方も、それぞれの思いでこの作品に触れて頂けたら幸いです。短いお芝居ですが、どうか最後まで、ごゆっくりとごらんください。

丸尾聡
『引きこもりの話』

 引きこもりの本を読んだり、話しを実際に聞いたりしていると、自分との共通点が、というよりぴたりと一致している点が多すぎてびっくりしてしまう。
 「なんだ、オレは引きこもりだったのか」
 改めて、今回気付いたのである。
 だいたい一番幸せな時間というのは何だ、といわれると、一人で家で本を読みながら、うまいものを喰い、酒を飲んでいる時間である。一番安心である。芝居なんか作るのは疲れていけない。
 そういえば、あの頃そんな言葉はなかったが、私自身も実際に引きこもっていたのだ、高校の頃。夏休みがきっかけだったと思う。もうどうしても学校に行きたくない。父親は東京に単身赴任しており、母親も働いていたから、家には一人だった。
 私は、昔から電話で「大人」の真似をするのが得意だった。中学の頃から、自分の父親の真似をして、友人宅に電話をして「どうかご心配なさらないでください。お子さんを今日はお預かりしますよ」と話したり友人のとと親になりすまし「今日はうちの孝夫、風邪をひいてしまったようで、休ませます。申しわけない」などと学校に電話をしていた。つまり、自分の父親になるなど簡単で、高校に毎朝電話をして休んでいたわけだ。
 しかし、二ヶ月近く休んだはずだ。どう言い訳したのだろう、細かいことは覚えていない。担任の先生にも何かうまく話したはずだ。実は今でも母は私が、休んでいたことを知らないはずだ。先生から電話が掛かってくることだけが心配だったので、家の黒電話に細工をした。あれは、二枚の金属板の間に先が丸くなった棒状の物があって、それが板を打って音が鳴るのだが、そこにティッシュを詰め込んだ。音はかすかにしかならない。これで、やばい電話は大丈夫だった。しかし、電話が全然掛かってこないのも変なので、母がその部屋にいない時は、電話の前に座り込み、電話に出る。電話はおかしくないよという工作である。一度先生から掛かってきたので、すかさず父親になったことがあったような気がする。
 また学校に行き始めたのは、こういう工作をしている方が、逆にプレッシャーになったせいかもしれない。
 まあ、携帯電話とメールがある今の世の中では、こうはいかなかっただろう。
 メールといえば、当然ネット社会もなく、今の引きこもりはネットと不可分のようにいわれているが、私は何をしていたか。

本を読んでいました。家にあった、松本清張全集、芥川龍之介全集、日本文学全集、日本の歴史全20巻、日本の詩25巻などなどを読み尽くし、麻雀放浪記を読んで、麻雀と阿佐田哲也にはまり、そういえばつかこうへいを読んだのもこのときが始めてで、小説とあわせて熱海殺人事件を読んで「戯曲って面白いもんだな」と思ったのが考えてみれば、今へ繋がっているのだ。日本文学全集で読んだ小説など、もうちっとも覚えていないけれど、本だけはあるうちで、そういえば福田善之さんの「真田風雲録」も父親が持っていて、読んだ。後年、自分が幸村役をやり、福田さんにその初版本にサインしてもらうようになるとは夢にも思わなかったが。
まあ夢の様な時間であったわけです。

どうもつらつら考えるに、自分があの時間から抜け出しているのか。
ああの時、家では二階を増築していて、僕は意まで寝ていた。起きると大工さんが木を切ったり、のこぎりをひいたりする音が、天井から聞こえてくる。
あの空間から抜け出していないような気がすることもある。

今回の話しは、もしかするとこういう経験と関係あるかもしれません。(ないかもしれないけれど)

御来場下さいまして、ありがとうございます。
僕は今まで、芝居で戦争を書くことを意識的に避けてきましたが、今回、初めて書いてみました、四〇になって何か少し変わったかもしれません。僕なりの書き方ですけれど。 どうかごゆっくり最後までご覧下さい。

丸尾聡

私は、自分の故郷を舞台にしたり、自分の故郷の言葉で戯曲を書いたりしたことがあまりなかった。どちらかといえば、そこから逃げ出して都会に出てきたからである。それが、最近少し思うこともあって、もしかすると、あの時代のことは、案外悪くなく、それどころか今の時代に、今の若い人たちに、こういう考えや感性を持った人たちが昔いたよ、ということも案外無意味ではないかもしれないと考えた。年をとったのかもしれない。しかし、それが過去を懐かしんだり振り返るだけではいけない、とうまくいったかどうかはわからないが気はつかったつもりだ。それから、言葉の問題は大きかった。劇作家の諸先輩方が、様々 な方言を駆使してすばらしい戯曲を書いているが、演劇にとって言葉こそが心情であると思う。それを、自分を形作ってくれた田舎の方言(実際は、だいぶ劇的方言!に変えてはいるけれど)を使って、表現してみたい欲求があった。

丸尾聡

丸尾聡の死ぬまで日記 復活編
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